昭和40年02月11日  朝の御理解



 信心は水に流される事もなし、火に焼かれる事もない、そう言うふうに申します。信心って有難いものだなと。例え、家が焼けましても、信心を一緒に焼く事は出来ません。どんなに大水が入りましても、信心迄流す事は出来ません。所謂、信心は何処までも金剛不壊のものでなからなければならないと云う事だと思うんですね。ところがです、皆さん、信心をさして頂いておりますけれども、果たしてそう云うようなおかげをお互い頂いておるだろうか、思うてみなけりゃいけません。ね、
 信心なら信心をこう握っておるようにあるけれども、信心はしておっても、やたらに信心がもう10年間続いておると云うても、その間に私は水に流れる事もなからなければ、火にも焼かれる事もない信心を、私はとろうとしておったと云ったような事はないだろうか、厳密に云ったら、はあ、これはなかなか難しい事だと云う事が分かりますですね。ね、
  もう迷いが起こっておる時には、もうすでに信心がもうどこぞ行っておる時ですよ。もっと厳密に云うたら不平不足を云うてる時は、もう信心はどこぞやっておる時ですよ。ね、私、本当この信心と云う物は有難い。焼けもしなけりゃ流れもせん。と云う所迄です。信心をそこまで高めておかねばです、そこ迄信心を頂いておかなければです、本当の役にゃ立たんと思う。
 いよいよの時にゃ神様がおられるけんと云う訳にいかん。離しては神様の働きを受ける訳にいかん。それは。そうでしょうが、こりゃもう、こう云う事は、もうそれこそどれだけ何十編、又それを皆んなが思い込んでおるか分かりません事です。ただいま私が申しました事、ね、信心ちゃ有難いと。成程、火にも焼けない、水にも流れない、けれども自分自身が頂いておる信心はいつも流れどおし、いつも焼けてしまっておると云ったような事ではないかと云う事なんです。ね、
  それでは、なら信心は有難いものだと云う事になってこないのですよ。そうでしょうが皆さん。ね、カンカンに腹を立ててです、いわば自分を失うような時には、もうすでに神様を取り外しておる時ですよ。ね、様々な場合にそれを感ずるでしょう。成程、又とりあえず拾う事は拾いましょう、けども、もうそこには一つその人は隙が出来ておる訳なんです。どんな場合でも、どんな時でも。
  昨日、金光教新聞があります、どこの教会でしょうかね、今津と云う教会の新築落成があっておる写真が、こう付いておるんです。なかなか御ヒレイの立つ教会が、その見ておりませんけれども、一番初めの所へこう云うよう事が書いてございます。一、いつでも何処でも何をしていても一心に願う信心の稽古を。二、いつでも何処でも何をしていても有難うございます、有難うごいますと唱え奉る信心の稽古をと。
  三、今月今日心新たに教会日参総御祈念にお引き寄せをと。これがその教会のスローガンらしいですね。もう難しい事は云うてないですね、やはり信心ちゃ、いつでも何処でも神様一心に願う。【 えん?  】だけの信心をと、こういつでも本当に【    】ないですね。いつでも何処でも何をしていても有難うございます、有難うございますと唱え奉る信心の稽古をしてきた事。
 そう云う信心を支えるもの、それは三、今月今日心新たに教会日参、総御祈念、信者一同が総御祈念をすると云う事、ね、総御祈念にお引き寄せをとこう、これが今津教会のいわば信心のスローガンらしいですね。いつでも何処でも願えれる。いつでも何処でも有り難うございます、有難うございますを繰り返し唱えておられる。こうなったら信心は難しゅうないですね。
 だから、その分かっておってもです、その常日頃の信心の修業がです、日々朝の御祈念にお引き寄せ頂いて、信者一同先生を先頭に、その総祈念が出来れるようなおかげをと書いてあります。そこに私は初めておかげの頂けれる、所謂、真、信心は火にも焼けなければ水にも流されんのだな~と云う、次のおかげが頂かれると思うんです。家は焼けても、必ず焼けぶとりね、流れてもです、水膨(みずぶく)れじゃなくてです。
 本当の意味に於てのおかげの頂かれる【    】いつも自分の心の中にです、有難うございます、有難うございますと繰り返しされておる様なおかげを頂かねばならんと、こう思うですね。そこ迄信心を高めておきたい、まあそこでですお互いの信心を様々な場合です様々な時です、ね、取り落とさんですむ為、その具体的な椛目で、日頃頂いておる信心を生か、信心にもの云わせていかねばいけないんだ、こう思うですね。
  昨夜皆さんが帰りましてから、もう2時過ぎでございましたでしょうか、もう昨日早く帰るはずだった所が、丁度ある方がもう立とうかと云う頃に、ある問題で見えられました。それから、その席に着いとりましたら、又福岡から電話がかかって参りました。こう云うような問題があっとりますからと云うて、秋永先生宛に電話がかかって来たんです。そんな所から、その話しを中心にして、そのもう時間のたつのも忘れるようにして、その事をです中心に、話しをしたんでございます。
 けれどもね、中にです、その問題の中心になる方が、もう本当に又その意気消沈しておられるんですね。そこで正義さんがこう云う事を言うておりますですね、「はあ本当に素晴らしいこう云うふうな・・?が信心なほうからかしとて良かろうと私が思うんです。これはあちらのあの久富組の、いわば本当の派がどう云うでしょうか、自分の方はもう善導寺に別れております。けれども内容はまだ同じだと。
 もうここ何年間のその願いなんですけれども、もう別に独立したいと云う願いを持っておられる訳なんですね。もう様々な時にです、もうほんとにいやっと思うようなこともずいぶんあるらしいですね。これは独立しなければいけない。なぜって片一方は信心がある。片一方は信心が無いのですから、その意見が対立したり致しましてですね、もう本当に、自分だけになったら、どげんさぞ良かろうと云うように思うです。だから願いは願いとして持っておる訳なんですよね。
  けれども私はね、そう云う様な思いをする時には、もうとにかく御神前に行って、御祈念をさして貰うとこう云う訳なんですね。どうぞ神様こう云う様な訳で御座いますから、どうぞお繰り合わせ頂きますように、おかげ頂きます様にと言うてその事をお縋りすると、そのお縋りした後にです、ね、けれども神様こうやって独立する。やっぱり一緒に親方と、こうやってしておると云う事が御神意で御座いますならです。
 それが神様の御都合でございますならば、1年は2年でも待たせて頂きますと、もうそう云う願いが、後は必ず都度都度に神様はオイサミを下さってると云う話しでした。私それを聞かせて頂いて、「素晴らしいなあ誰でもここ迄は頂かにゃいかんよ。」と私申した事でした。どう云う様な問、どう云うような場合でもです、お互いがこうありたいああありたいと願う願いを持たん者はありません。そこの所を切実に願う。
  けれども神様、これがです、例えば正義さんで云うなら、やっぱり親方と一緒にこうやっているのが御神意でございます。なら1年は2年でも待たせて頂きますと云うこと。5年でも10年でもと言えんでもです、例えばそれが1年でもという所が、所に素晴らしさがあるわけです。1年後に又1年というたらいいでしょうが。ね、そこにま信心の未熟を感じますけれどもです、そういう気持ちにならせて頂くという事。
 そういう御神意でありますならば1年でも2年でも待たせて頂きますというときには、すでに何が自分の心の中にあるかと言うと我情をいわば外しておるときなのです。そうでしょうが、自分の思いを外しておる時なんです。今皆さんが難儀に直面しておるそのことがです、どうか助けてくださいという切なる願いを持っておるけれども、けれども苦しいこの難儀な問題を私が持ち続けることがです、御神意でございますならばそれは1年でも2年でもこのまま持ち続けますといういわゆる我情をはずした姿なんです。
  神様は、取り外さないと焼けない、流れないと云うようなおかげを頂く為にです、自分の我情を取っておると云う事は、いかに神様を握り続けていくと云う事が出来ると云う事が分かるでしょうが。ね、そう云う気持ちにならせて頂いたら、実に祈りがスム-ズになっていく。自分の我情いっぱいに、こうありますようにと云う願いはです、神様が聞いて下さるやら、聞いて下さらんやら分からん感じがするけれども。
 自分の我情を取ってです、縋る事は縋るけれどもです、この次の我情を取って、神様ここをお任せにならせて頂こうとする心にならせて頂きますと、もうその云うた事、願うた事に対して神様はオイサミを下さると云う話をしておりました。それを聞いておったその方がですね、「本当に、はあそうだったね」て言うですね。晴々しい笑いが出るんですよ。次にですね、文男さんが、こんなこと申しております。ね、
 例えば、「今朝から、昨晩の御理解を頂かせてもろうて、先生がおっしゃったでしょうが」て、ね、言いたい事もよう言わず、したい事もようせず、ここの所ですよと、ね、言いたい事は一杯あるのだけれども、そりゃちっと金光様金光様で、その言わんで済むと云う事。そしてそこに詑び抜いてゆくと云う事、これはね、人にお詫びする時です。その人だけなら、どないに思うてもお詑びでけんのだけれども、そのお詑びの半分を、神様に向けてごらんなさい。
 本当におかげ頂きますよと云うちょります。私が、永瀬さんなら永瀬さんにお詑びせんならんことになっとるけれども、けども本当の事を云うたら、そのお詑びはしょうこともないし、又せんでもよいと思うけれども、それを事を神様に詑びると云う事になったらです、私は詑びる事はなかてんなんてん、横着なことをいいよる事はない。だから半分をその人に詑び、半分を神様に詑びる気になってごらんなさいって、「はあ本当に驚きました。」と、こう言ってるんですよ。
 お詑びする事はないと思いよった。ね、けれども半分は神様にと、と云う事にならせて頂いたら、私は神様に詑びんならんごとないちゅう事は、言える人は一人もなかろうと思いますね。例えば、その難儀な問題なら、難儀な問題でもです、こう云う難儀になったと云う事は、私、不徳の為とか、ね、こう難儀の基は作っておった事に対するお詑びと云う物がです、ね、半分はその人に、半分は神様にと云うような気持ちになったら、お詑びが神様に通い、それをまあ云うなら相手の人もです。
 途端に同情的になられますよ。こう云う体験を自分は持っておりますというて話しておられます。自分の思いを外すと云う事がです、いわば神様をはずさんですむ事だと云う事が分かるですね。自分の思いを一つであったらです、ね、どうしてこう云う事になるじゃろうかと思うただけで、もう神様を疑い迷いもう神様を握っておるはずなのが、握っていない事になるのですから。
 私、金剛不壊とか云ったような、その難しい言葉を使いますとです、いわゆるその不動の信念と金剛不壊とか、どう云うような事にでも、煩わせられないところの心と神様を、いわば、握って外さんですむところの、おかげを頂く為にはです、ね、それをみやすう云うと、只今申しましたような事になるんですよ。ね、外さんですむでしょうが、願わにゃおれん事が切実にある。ね、
  けれども、それが神様の御都合でありますならばです、1年は2年でも待たしてもらいますとこう云う所、ね、自分の我情はとっておって、神様が生き生きと、ここに私の心の中に頂く事が出来る。そう云う我情をとって神様に縋る事ならです、一言一言を神様が合点して聞いて下さるような、お繰り合わせが頂けるとこう云う事。縋る事、願う事、だぁれも信心ではです、必ず縋る事、願う事が思うようにならんと迷いが起こったり、信心にですね、緩みがきたり、必ず致します。
  ところがすでに神様を握ってはいない、はずしておる時であると云う事になりましょうが。ね、神様が信じられなければです、只今申しますような事は出来ませんですね。けれども、ここにもう一つ何か欠けたような物を感じます。皆さんが気付かれませんですか、神様をやっぱ信じよう。焼く事もいらん、流す事もいらんようなおかげを頂く為にです、もう一部分欠けておるような物を感じられませんですか。
 例えばなら、正義さんの例をとりましょうね、こうありたいと云うて願っておる。もう何年越しの願いである。ことあるたんびに、それを痛感する。ですから、どうでも独立のおかげを頂きたいと云うて願うけれども、それが御神意であり、かみさまの御都合であるならばです、1年でも2年でも待たせて頂きますと云う。そこにもう一つ何か欠けておる物を感じられませんですか。
 もしですよ、正義さんがです、修業不足の為にいつもそのおかげが成就してないと云う事になったらどう云う事になりますか、ね、これが欠けておると云う事なんです。ね、一番いまの、いつでも何処でもと云う、その今の私が読みました一番最後の所ですたい、ね、本当にお日参り的な、信心修業でもさせて頂いてです、信心の稽古を本気でさせて頂いておって、今正義さんの申しますような事になって来なければですね、実を云うたら本当な事じゃないと思うですね。
  これだけの云うなら修業をさせて頂き、これだけのお縋りさせて頂いておって右や左になるのであるから、これが御神意であり、御都合であるならば1年は2年でも待たせて頂きますと云う事になった時にです、これがいよいよ本当な物だと云う事になるのじゃないでしょうかね。修業不足の為にその1年が2年というふうにおかげのほうがだらだらとなっておるかも分かりませんものね。ね、だから、どう云う御神意か分かりませんけれども、その御神意の中に、「お前がもうひと頑張りすると。
 お前がお前の思いのおかげが頂かれるのぞ。」と、神様もし言うて下さったらどうなりますか。だから、ここの所の信心が今日の御理解の、いつも神様を水にも流されない、火にも焼かないですむようなおかげを頂くと云う事は、我情を取ると云う事だと。ね、そして神様にお任せする心になる事だけれどもです、同時に、只今申しますような修業がです、なされて初めてそう云う気持ちにならせて頂いたら、心がすっきりと。
  例えば、ほんなら、正義さんの例を申しますならば、ね、本当にこうありたいと云う願いがです、本気で今日の朝参りでもさして頂いて、一生懸命の修業をさせてもろうて、お縋りさせて頂いて、そして結果は神様にお任せすると云う気持ちにならせて頂いたら、1年や2年どころじゃない、1年は半年で思うようなおかげになったと云うようなおかげになって来る。そう云うおかげがです、本当の事じゃないかと思うですね。
(終わり)